椀と呼んでいる硝子の器がある。桜外側から眺めると硝子地に白とピンク色の斑が浮いているに過ぎないのだけれど、その内側の文様たるや非凡。白を基調としながら、そこはかとなく淡い桜色の風情を漂わせ、見る者をうきうきと春めいた心地にいざなう。高齢の硝子作家の作品であるが、作者のセンスが年月によって洗練されているよ手な傑作である。いにしへの奈艮の祁の八重桜今日九重に匂いぬるかなI?‘という古歌もあるけれど、現代人にとっての「桜色」は、江戸時代の品種改良によって作られ、後に全国に広まった「染井吉野」の、ほとんど白に近い淡色ではないだろうか。個人的にもあの淡い色が大好きである。この椀の内側に浮いた色は、まさにその染井吉野の淡色を努混とさせる。両掌で包むようにこの椀を持ち、覗き込む。すると、椀とひととの位置関係がつるりと反転して、あたかも樹の真下に立って、満開の桜を見上げているような錯覚にとらわれる。願くは花の下にて春死なんそのこ月のもち月のころと詠ったのは西行法師だけれど、人間の生死は、なかなか個人の思いどおりには叶わない。死病にとり憑かれたひとはよく、「これが最後の雪見か」とか、「来年の鮎は食べられまい・玉とか、「桜の花も見納めだな・・・」などという。指折り数えれば、成程その通り。そこまで病勢が進行しているひとに、健康な人問がどんなに言葉を尽くしても、所詮は他人ごとに過ぎない。それは、血の繋がった家族でも同じこと。結局、人間は独りで死んでゆかなくてはならないのである。「来年の桜は見られないだろうなあ」そう呟いた知り合いに、この椀で水を一杯振舞った。椀の内側を覗けば、いつも桜の満開である。あえてそう、私は言わなかった。彼もまた、愚痴めいた言葉を繰り返さなかった。知る人ぞ知るギフト選びの公式サイトへ